生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

我が子はかわいいのか

「自分の子どもがかわいいのは当たり前ではないですか」と、私に言ったのは、新婚でそろそろ一人目をつくろうと計画している職場の同僚だ。そんなことはない、と云う私の見解に、彼は憮然とした表情をみせた。実の子どもに対する虐待は別に珍しいことではないし、私は4人育てて、虐待する親の気持ちは少し理解できるようになったと表明すると、彼は私をさげすんだような表情で見た。
長女が生まれたとき、私は積極的に育児に参加した。私たち(家族三人)はとても自由だったから、自分たちのやり方で育児に取り組むことが出来た。長女に離乳食を食べさせて、長女は大変良く食べたのだが、器から小さなスプーンで掬って長女の口に運ぶ。長女が満腹になるまで、それを繰り返す。小さなスプーンで、いくらでも食べ続ける。しばらく続くと、私は果たして子育てを終えるまでに何度スプーンを子どもたちの口に運ばなくてはならないのだろうと思った。それは永遠の時を費やす作業のように思われた。
長女の育児は、アメリカで始まった。彼の国では、出産・育児は夫婦の共同作業という考え方が徹底している。口を出す人に気兼ねする必要もなかった。私たちはそこで私たちのスタイルを確立した。二人目の出産は帰国後。都合で妻は里帰り出産となった。三人目が生まれたとき、長女は幼稚園に通い始めた。乳飲み子と次女を妻に任せて、最初の懇談会に私が出席したが、父親が参加していたのは私だけで、幼稚園の中で大変目立った。子どもたちが社会活動に参加し始めると、私たちの独自のスタイルを維持することが難しくなる。いま、子どもたちはそれぞれに学校、幼稚園などに属しているが、そのケアをするのは主に妻の役割で、私は妻のサポート役である。理由は、社会がそうなっているから。妻は先頃、くじ引きで子供会の役員になったが、端から父親が参加する設定になっていない。長女の幼稚園の卒園式では「お母さんに感謝の言葉を述べる」コーナーがあったが、父親は無視された。
私が子どもたちのために様々な努力をし、犠牲を払うのはなぜだろう。それが自分の子どもに対する愛情なのだろうか。
私は違うと思う。小学校の教師は、自分が担任を受け持つ児童をかわいく思い、他のクラスの児童はかわいく感じないのだろうか。児童は皆かわいいに違いない。教師は担任を持っている児童たちに特別な責任を持たされている。その点が大きな違いだ。
私は自分の子どもたちがかわいいと思うことがある。(腹が立つこともある)
なぜか。自分の子どもだからか。違う。私には子どもたちを育てる責任がある。責任を果たすために努力している。子どもたちは私の努力を受け止める。私が努力するほどに、子どもたちは変化する。子どもたちの変化には「成長」という特別な言葉を充てる。子どもたちは私の努力(だけではないけれども、様々な外からの刺激)によって育まれ、成長していくことで私は愛情を感じるようになる。ようやく、私の子どもたちに対する愛情が出てきた。ずいぶん回りくどい愛情だ。
私は、愛情が親子関係から自然に生まれるのではないことを指摘したくて、このようなことを書いている。血縁関係であったり、生活の場が近いことが自動的に愛情に繋がるわけではないと思っている。自分の子どもがかわいいのは、当たり前ではないのだ。自らが選んだ妻との間に、自らの意志で子どもをもうけて、その責任において努力し、私は子どもたちに対する愛情を育む。
私の想像力は、子どもたちに対する虐待が、誰の上にも、もちろん私にも起こりうることを警告する。我が子がかわいいのは、別にその子が自分の子であるからではない。そういうことは、子どもを育て始めてから気がつく人は気がつくのだろう。4人目を育てて、少し余裕が出来たときに、私はつくづく感じた。