生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

21年目・荒れ模様の予報

大学入試センターの試験の週末である。
仕事のあと、東遊園地に立ち寄った。午後4時頃と思うが、次々と人々が訪れる。少しお金をカンパし、ひまわりの種を受け取った。
震災後21年である。
随分長い時間のような気がする。
22年前にアメリカに渡り、長女が生まれる直前にロサンジェルス近郊で地震に遭った。一週間前にロサンジェルスの美術館に行くために通った高速道路が落ちていた。明け方の激しい揺れで目覚めた。窓ガラスが割れるかと思い布団をかぶった。揺れが収まって窓の外を見ると、満天の星空だった。恐らく、停電していたせいだろうと思う。その一週間後に長女が生まれた。
21年前はロサンジェルスにいた。日本では冷害で米が取れず、野茂投手がメジャーリーグへの挑戦を開始した年である。私たちはロス近郊のアパートで家族三人で生活していた。東京ではカルト集団のテロ事件があり、神戸が直下型地震に見舞われた。
全く偶然だが、1年前に地震を経験していたため、私の回りのアメリカ人達は地震に敏感だった。第一報がテレビで流れたのが、地震の数分後で、妻が実家に国際電話を入れた。妻の実家も兵庫県にあり被災したが、義父は消防士で、「家族は無事。これから出動する」との返事があった。その後、全く連絡が取れなくなった。多くの友人が被災した。救援や復興に尽力した友人の話もあとで聞いた。
アメリカ人達は、困っている人が居たら助けようとする。人助けが好きなのはアメリカ人の美点である。
当時もクリントン大統領が日本政府に米軍の出動を申し入れたが、村山首相が断った話しを覚えている。職場の友人達から、日本政府はどうなっているのか。と説明を求められたが、彼らはあまりの被害にどうして良いか分からないで居るのだと答えたと思う。友人からは I'm sorry. と言う返事が返ってきた。
市民レベルでの救援がおこなわれて、ロサンジェルスの日系人のコミュニティが中心となって援助物資を日本に送っていた。一般市民が自宅倉庫に眠っているいろいろなもの(本当に雑多なもの。古着が主だったと思う)を持ち寄り、その仕分けと荷造りの手伝いをした。のちに、神戸の大学で働くようになって、震災の時にアメリカから送られた古着を着たという学生の話を聞いて、無駄では無かったと思った。
帰国はその年の10月、西宮に引っ越してきたのは5年後だが、まだ仮設住宅があって、震災の爪痕ははっきりと感じられた。被害が大きかった地域には古い建物が無く、どれも不自然に真新しい。当時新しかった家も、今では随分古ぼけてきている。
私は戦争が終わって17年目に生まれた。終戦後20年余りの当時の記憶は少しある。
北海道の海岸線にはトーチカが残っていたし、地元のパルプ工場の煙突に爆弾が落とされた話しを聞いた。小学校の窓ガラスには戦時の雰囲気が残っていた。招魂祭とよばれるお祭りに小学校が鼓笛隊で参加し、傷痍軍人達の姿を見かけた。
20年は時代の移り変わりに気付くには丁度よい単位と思う。
新しい20年の始まりである。


低気圧の通過で大荒れの天気が予想されている。今夜から雨の予報が出ており、雨雲レーダーの画像を見ながら走る予定を立てた。2時間くらいは大丈夫そうに思えたので、フルコースに行くつもりで家を出た。
craftのアンダーシャツ、長袖シャツを着て走り始めた。あまり調子が良くない。疲れていたのだと思う。鷲林寺南町のてっぺんで、レーダー画面を確認すると、雨雲が近づいているようだったので、宮川沿いを駆け下りて帰宅した。
結局雨にはあたらず。
眠い。疲れている。
16.48km, 1h39m57s, 988cal, up/down 408m, 9°43%
大変喉が渇いて、途中でドリンクを買って飲んでいたら身体が冷えた。あまり調子が良くなかったと思う。
夜に長女から電話。