生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

レントゲン写真・さよなら大好きな人

昨日、妻の付き添いで整形外科の診察室に入った。
妻は、右足に体重を掛けられない状況が続いており、片足ケンケン、もしくは松葉杖、或いは座ったままおしりをずらしながら移動している。
評判の良い整形外科医院だが、患者は老人が多い。9時の診察開始より早くに並ばないとかなり待たされることになるからと、8時15分に家を出る計画を立てる妻。片足で並ぶのもどうかと思うが、行列に並んで待たされることを極端に嫌うのは妻の性分である。
そのためには、いつもの土曜日よりかなり早めに起きて、犬と散歩を済ます必要がある。朝食も私が準備する。といっても、トーストにバターを乗せるだけだが。
私たちの前に既に数名の行列が出来ていた。余り時間は掛からず、レントゲン写真の撮影ののちに診察室に呼ばれた。
先週の受傷時と今週、二組のレントゲン写真を見ながら主治医が説明してくれた。骨の真ん中が折れているのかと思ったら、根元の膨らんだところ(中足骨の近位端)に骨折線がぐるりと一周入っている。素人では、見ても骨折とは分からないかもしれない。
特にずれている様子は無く、しかしまだ骨はくっついていない。安静を保つように。今後治癒までどれくらい時間が掛かるかはもう少し様子を見ないと分からない。痛み止めは自分の判断で止めても良い。湿布は続けるように。また固定も必要である、と指示をいただいた。
安静を保つことは、案の定難しい。何しろ主婦である。今はまだ春休みだから、いろいろと子ども達に頼めるが、もうじき学校が始まるとそれどころで無くなる。
せっかく桜が満開というのに、妻は花見に出かけることも出来ないので、帰り道に車で少しだけ遠回りして桜並木を遠目に眺めた。


今日は、次女がマンドリンの発表会とのこと。
本来なら妻が聴きに行くはずだが、この様な状況で家から出られない。次女は、家族の誰か聴きに来て欲しいと盛んに言う。私が行くことにした。
出かけに何故か大切なステージ衣装を家に置き忘れて、三女が会場まで届けに行くという謎のアクシデントがあった。私は、次女とその前後数名の演奏を聴いた。マンドリンの先生は、マンドリンだけで無くさまざまな撥弦楽器全般に長じておられるようで、各々の演奏者と一緒に舞台に上がってギター伴奏を務めていた。大変お上手で、とても良い音が響いていた。
自宅で練習しているときはいつも突っかかっていた次女だが、本番ではおおむねミス無く弾ききったようだった。
私は、音楽をゆっくり聴いて、充実した時間をすごすことが出来た。


我が家には年頃の娘が三人居り、いろいろなことが起きる。出会いや別れ。その度に、娘達は傷ついたり傷付けたりするわけだ。
私も、妻も、娘達からそういう話しを聴いて、おおむねポジティブな感想を述べる。茫然として悲しんでいる娘(達)に、それで良いのだ、とコメントするわけである。
つまり、私たちは最初に出会った異性と生涯をともにするということは、まずあり得ない。それはよほどの幸運である。どんなに平和で凡庸な夫婦に見えても、(私たちを含めて)そこに辿り着くまでに幾つかの出会いと別離が組み合わさっている。それはとても単純な抑揚であったり、複雑に絡み合った迷路であったりするだろう。さまざまなドラマが人々を染めてゆく。
基本は、信頼できることであり、その結果として一緒に居て楽しいということになる。
もし、堅苦しく退屈であったり、無用の緊張を強いられたり、微塵でも不信感を抱かせられるなら、二人の関係は決して上手く行かない。一度リセットすれば良いと思う。勿体ないと思う必要は無い。出会いと別れはともに真の相手と巡り会うための努力の一部である。
うちひしがれる娘に、お気に入りの花*花の歌を口ずさんであげる。

もう帰ってこない。それでも私の大好きな人。

残酷に思うかもしれないが、この先に開けている輝かしい未来に較べると些細だし、その別れは経験、そして新たな出会いを期待する意味で大変貴重で喜ばしいことである。中島みゆきはこのように歌っている

たとえ今日は果てしも無く冷たい雨が降っていても、巡る巡るよ時代は巡る。別れと出会いを繰り返し。

昔の人は良く知っている。私たちはもっとゆっくりと生きていくべきなのだ。