生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

83年

バイク修理でバイク屋へ。クラッチレバーが新品になり、フロントフェンダーもピカピカ。作業を待つ間、冷房の効いた部屋で雑誌をめくる。バイク雑誌は、随分と淘汰され、それでも残る雑誌は、大昔からあったものばかり。モトライダー誌に目がいった。
フレディーの特集である。そのことで、一言書きたいと思っていた。随分昔の話で、私が始めてシーズンを(雑誌で)追いかけたWGPが83年シーズンである。胸が高まり、読みふけった。
私がこれに興味を持ち始めたとき、モノコックフレームのNRが片山敬済に託された年だった。その頃はただ、そのNRの格好良さだけだったと思う。RIDING SPORTSの刊行が大きな契機となった。私はプレ創刊号から全部買っていた。鈴鹿8時間耐久レースが台風に襲われた年である。
迎えた83年シーズン、WGPは12戦で争われ、最終戦サンマリーノを迎えたとき、NS500を駆るフレディ(ホンダ)が6勝、OWを駆るケニーロバーツ(お父ちゃんの方、ヤマハ)が5勝。最終戦でケニーがチャンピオンを獲得するには、優勝し、なおかつフレディを3位以下に押さえる必要があった。ヤマハはエディローソンにフレディを押さえる役回りを用意した。
このシーズンのNSとOWの実力は伯仲していたが、特にシーズン後半は、ヤマハが若干有利だったように思う。WGPがクラッチスタートになったのは、最近のことで、この頃は勿論、押しがけでエンジン始動。ケニーのエンジンが始動せず、と言うようなレースもあったはずだ。
私が覚えているのは、最終戦、ケニーはエディが追いついてくるのを待ち続けたが、結局、エディはフレディの前に出ることが出来なかったこと。虚脱状態で、3位の表彰台に立つエディの焦燥しきった表情である。
多分、ケニーはこの年で、WGPを引退したはずだ。翌年の鈴鹿8耐に藤色のヤマハで登場した。私の生まれて初めての生レース観戦となったレース。パートナーは平忠彦。ここでのライバルは、ワインガードナーだった。
私の記憶では、ケニーは84-85年、二度、八耐を走ったように思うのだが、8耐のオフィシャルサイトでは、84年のことにふれていない。