生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

参観日に見るナショナリズム

内田先生の言説。後半部分に着目する。


豊かな才能に恵まれた子どもはいまもたくさん生まれている。
けれども、その才能を「みんなのために使う」ことのたいせつさは誰も教えない。
「あなたの才能は、あなただけに利益をもたらすように排他的に使用しなさい」と子どもたちは教えられている。
彼らに「物心両面で支援してくれるような社会集団」に帰属することの有用性は誰も教えない。
むしろそんな集団に帰属したら、利益を独占できなくなるし、自己決定権も制限されるし、連帯責任を負わなければならないし、集団内の弱者のケアもしなければならないし・・・損なことばかりだから、「スタンドアローンでやった方がいい」ということだけが専一的にアナウンスされてきた。
このアナウンスメントは歴史的には「正解」であった。
社会全体にさまざまな中間共同体(親族や地域社会や企業など)の網目が張り巡らされ、個人の可動域が極端に狭められていた時代には、スタンドアローンで自己利益を追求するタイプの個体が利益を独占するチャンスがたしかに高かった。
だから、子どもに向かって「他人のことはいいから、自分の利益だけ配慮しろ」と教えたのは、そのような「お節介社会」においてはまちがいなく有効な生存戦略だったのである。
親族制度の空洞化、終身雇用制の崩壊、未婚化、少子化などはすべてこの「お節介社会」の解体=自己決定・自己責任システムをめざした社会的趨勢である。

人の嫌がることを進んで引き受けたり、困っている人を助けたり、他人に迷惑を掛けないように、とか、小学校はそういうセリフがまかり通るところである。参観日に児童達は親たちの現実を見せつけられる。
時間に平気で遅れてくる親たち。授業をろくすっぽ聴かず、世間話を続ける。懇談会になるとクラス役員を誰も引き受けようとしない。
子どもたちは現実を見せつけられる。親たちが普段やっていることと、先生が言うこと。先生が言うことは特別で、親たちのやることが日常的なことであると確認するのが参観日である。内田先生はさらに、家庭は果てしのない干渉の場であり、学校は愚者による抑圧の場であり、職場は無意味な苦役の場であると教えられてきた若者には「互酬的関係で結ばれた共同体」というのがどのようなものであり、どうすればそこのメンバーに迎えられ、そこでどのようにふるまうべきかについての知識がない。そして、愕然として、思わずしがみついた先がナショナリズムなのである。と指摘している。
4人姉弟と過ごしていて、我が家の子どもたちは常に他の姉弟達との関係の上に自分の存在があることを心得ている。自分勝手にはならないと、身をもって知っている。
他人に配慮することをよく知らずに育つ同世代の人々とうまくやっていけるのか、心配になることがある。