生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

虐待する親

妻は几帳面な性格というわけではないが、責任感が強い。自分が産んだのだから、自分で育てたいと思ったのだろう。いや、育児という行為の可能性を高く評価して、親が子どもたちに接する時間が子どもの個性や人格を形成していく上で実に大切だと言うことを感じていたのかもしれない。
専業主婦で、ほとんど実家の親に頼るようなことはなかった。末っ子の長男が幼稚園に通い出して、初めて自由な時間を手に入れた。
育児に関して、父親は母親に敵わないとか、どうしても母でないとダメなことがあるとか、そういう発想を持ってはいけない、ということを私は4人目の育児中に初めて知った。
長女の育児が始まったときから、妻は授乳が終わったら赤ん坊を私に渡す。私は縦抱きをして、げっぷを出させて、それからしばらく子どもの相手をする。家族で出かけるときも、妻は私が子どもと接する時間が長くなるように配慮してくれていた。私が家にいるときは、おしめを替えたり、風呂に入れたり、そういったことのほとんどを私が担当した。少し自分自身が楽を出来るように、あるいは育児の困難さをぼんくらな父親に少しでも分からせようとしていたのかもしれない。
私は妻の期待に比較的良く応えていたと思う。しかしそれでも、泣き出して手に負えなくなったら、妻に返す。男親は潰しが利かない。私はそう思っていた。
長男が生まれて、4人目だったのだが、もしかするとこれが最後の育児になるか、と思って、妻は私にあらかたを任せる決意をしたらしい。
もちろん、私は日中仕事に出かけたが、仕事に出る前、晩飯時に帰ってきたとき、夜遅くに仕事から帰ってきたとき、妻は私に長男を手渡した。多少泣こうがわめこうが、私は極力妻を頼らずに、息子に相対した。
泣き続ける息子を抱いて、こいつをおとなしくするにはどうしたらよいか、思案した。虐待する親の気持ちが少し分かった気がした。女親の多くは、毎日のようにそういう経験をしているのだろうと思う。
おとうさんは、良いとこ取り、なのだ。育児に参加したつもりでいい気になってはいけない。育児に関して、妻と夫は同格という信念を持つべきだ。おっぱいが出るかどうかは、実は些細なことなのだ。困ったときに妻に委ねる発想を捨てよ、といいたい。子どもの扱い方は、追い詰められてようやく分かってくる。
世の中は男女共同参画とか何とか言っているが、育児は女が主にするという前提から抜け出せていない。ちゃんちゃらおかしい。女性の社会復帰とか言っているうちはどうにもならない。
長男が、幼稚園を終え、もうじき小学校に進む。感慨もひとしお。忍耐強く子どもたちの相手をして、最後に私まで教育してくれた妻に感謝したい。