生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

私はそれでも生きていく

出来るだけ、小さな主語を使いたいと思っている。
だから、なるべく意識して、「私たち」と書かずに「私」と書く。(わたくし)である。
妻と私はいつも意見を交換しているし、一緒に暮らして長いので妻と私という意味で「私たち」と書きたい気持ちになることはあるが、それでも私たちと書くには抵抗がある。
ブログを検索してみると、2019年に書いた104のアーティクルのなかで「私たち」と7回書いている。
マラソン大会に出て、スタート地点に並ぶ約2万人のランナーを「私たち」と書いている。
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マラソン大会前に妻と寿司屋に行った話を書くときに夫婦二人を「私たち」と書いている。
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妻とウォーキングして意見交換をしている時に、「私たちが」と書いている。
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妻とラインでやり取りすることを。「私たち」はSNSでつながってる、と表現している。
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直太朗のライブで「私たちは3階席だった」と妻と私のことを書いている。
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自分たち家族の生活のことを「私たちの生活と密接に関わる」と言っている。
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以上である。
これが多いかどうか分からないが、本当に私はなるべく小さな主語を使うように意識しているつもりだ。
精神的に少し滅入ってたり、宴会が挟まったり、雨が降ったりして、なかなか思うように走る事が出来ずにいる。そもそも、走ったところで何か得られるか。走らずにいると、走る事が馬鹿げているように感じられる。
走る事によって得られるものは、走る時間である。その走る時間を何に費やすかは、走る本人が決めることである。私は、走っている2時間ほどを瞑想に費やす。これは十分に意義のあることなのである。もちろん、時間には限りがあるので、比較の対象にはなるが、昨晩はその様に過ごすことに意義を見出してみようという気分になった。

数日前に計画し、結局実行できなかった御影を回るコースを走ることにした。以前はよく走っていた道である。心地よく走る事が出来て、少し安心した。明日も走りたいという気持ちになった。。