生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

ジョガーは日陰を走る

なかなか走るに走られない日々である。
加齢による衰えが顕著で、左膝の裏側が、走っていると疲労感が強く、痛みとして感じることがある。
思い通りに走ろうとするのは、かなり勇気が必要だ。
十分なストレッチや準備運動が必要なのだろうが、時間がない。場所がない、余裕もない。
月々お金を払い、ジムに通えばある程度解決するが、お金もない。


病気の流行が懸念され始めたときに、政府専門家委員会のオミ先生が、「ジョッギングは大丈夫なので、大いにやってください」というような発言をして、あららと思っていたら学校や職場が休みになった人たちが俄ジョガーとなって遊歩道に溢れた。この感染症の流行は、いろいろな意味で公衆衛生的にはプラスの影響があると思った。多くの人が、衛生面を気にするようになった。ジョギングを始めた。他にもある。
そのうちに、ジョギングは飛沫が広い範囲にばらまくというデータが出された。
加えて、日本国内で最も社会的に影響が大きいジョガーのノーベル賞科学者(山中教授)が、飛沫を飛ばさないようにマスクをして走るべきだとおっしゃった。教授の影響力は絶大なので、これは困ったことになったと感じたが、私は直ちに通販でジョギング中に顔を覆う布を手に入れた。教授は、感染予防というよりこの世の中のエチケットという趣旨の発言をしたと思う。
私も、エチケットであるという意見を持つ人がいることは理解する。
だから、その布で顔を覆う行為を「顔パンツ」と名付け、自嘲した。
ジョギングという、非生産的な行為のなかで、顔の中の口元を世間に晒すということは猥褻行為に等しいのである。(世の中が変わったのだ)
多少の息苦しさを感じながら、初夏のうちは安上がりな高地トレーニングのつもりで走っていた。真夏になって、暑さの中で本格的に汗を掻くようになると、パンツで顔を覆って走ることがどのような結果をもたらすか、なんとなく想像していた。実際に、梅雨の晴れ間の夏の最初の日に、私はそれなりに我慢強く暑さにも強いと自認しているが、そういう人ほど危険であることを実感した。
汗で濡れる速さと、汗が蒸発する速さのバランスが取れているうちは顔パンツ越しでも呼吸ができるが、顔パンツが汗で濡れ始めると、呼吸が困難になり、そこからは悪循環になる。
その後、神戸大学の岩田教授が、顔パンツのことを批判していた。彼もジョガーであるがそのようなものを着けずに走るとのこと。彼は、人出が少なく他人とほとんどすれ違わずに済む道を知っているというのだ。飛沫に暴露される他人がいないのであれば、マスクも顔パンツも不要である。道理であるが、何の解決にもならない当たり前の事実を言ったまでである。
私のジョギングは常に孤独である。マラソン大会に出場する時を除いて、誰かと示し合わせて一緒に走ることはない。今までずっと一人で走り続けてきた。
あえて、人気の少ない道を選んで走っていたと言って良い。だから私も、顔パンツを脱いで、走るかといえばそうではない。日中、人目があるときは顔パンツを被り、顔パンツを脱ぎたいのなら夜間である。
今の世の中で、あらゆる行為は感染のリスクを評価して折り合いをつける必要がある。私はそのことをはっきり自覚した。今後このウイルスの流行がどのようになるかわからないが、数年の単位で考える必要があるだろう。この1、2年の間に、マスクが不要な世の中に戻るとはとても思えない。つまり、マラソン大会のスタート地点に数万人のジョガーがマスクをして密集し、スタートを待つという話である。これはあり得ない。コロナの世界では、悠長にマラソン大会などやっている場合ではないのである。
同じような意味で、オリンピックもできないし、私は夜に人目を避けてコソコソと顔パンツを脱いで走るのである。


世の中が変わったことを理解していない人々と付き合うのは、それなりにリスクがある。
大学の教員たちは、苦労して遠隔授業に取り組んでいる。教育的にも、公衆衛生にもかなり効果があるはずだが、リスクを理解しない人は、従来どおり学生を大学に通わせて講義や実習をさせようとする。(文科省を含めて)
いまや、リスクを冒して講義室に学生を集めることにほとんど意味がないことに、気づくべきである。友情を芽生えさせたいというなら、他の手段を探せば良い。世の中は変わった。当分はマラソン大会はないし、学生は大学に通わなくても学業を修め、学位が取れるはずなのだ。
のびのびと、自由に走りたいのなら、そうできる場所を見つける必要がある。あらゆる行為にリスクが伴う世の中になっていることを自覚すべきだ。自覚できない人と生活することが、リスクとなる。
ジョギングがさっぱり楽しくなくなったという、愚痴である。