生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

感情をドミノにしてはいけない

ある記事にインスパイアされる。興味をもつ。
共感を覚える、或いは反感をもつ。かみ砕き、自分の気持ちを整理する。その過程で何か意味のあるものを導き出して言葉で表現する価値があるものが生まれれば、公開する。
ドミノが倒れる様は、爽快である。人々はさらに派手に倒すために、自らをドミノに見立てて置き場を工夫する。
しかし、私のエントリはドミノではない。倒れかかっていくものではなく。受け止めて意見を返すのだ。私のエントリを読んだ誰かが何を感じ取るか、私自身にはコントロールできない。
媚びず流されず、私の書きたいことを書く。ドミノのようだと思ったら、自分が止める意志をもつこと。
私はそのようなことを考える。

私の氏名だけに興味がある人

私の氏名に興味をもつ人はどういう人だろう。
検索欄に私の名前を打ち込む人はどのような人だろう。
私の仕事について興味をもつ人がいると思う。私の業績やスペシャリティについて興味をもつ人。そのような人に、このダイアリは無用だ。
ほかに、何かの名簿から私のことを思い出して消息を知りたいと思う人。小学校や中学校の同級生など。
あとは、名簿を買い取って電話を掛けまくることを仕事にしている人。この人達は純粋に「私の名前だけ」に興味をもっている。
そのような人たちに私の個人的な見解や普段の生活を公開することは危険だ.
私はそういった人たちからの電話を受けたくないし、共通の話題をもちたくない。

おめでとうと言われた父と母

私が生まれる少し前に、私を身ごもったことを知った父と母は、大変感動しただろうし、やはり誰かにそれを報告しておめでとうと言われたに違いない。その時、私の父はきっと何か決意を固めていただろうし、母は笑顔だったに違いない。
全ての人々に、そういう履歴があるはず。
感動のコメントが並ぶのを見たとき、私が感じた違和感の半分はそういうこと。
残り半分は、そういった話題に興味を示す人がずいぶん沢山いるんだという、安堵感のようなもの。