生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

親の責任か

意外にも、「親」が僅差の2位。

親の責任を問う声はマスコミに(ほとんど)出てこない。ここにもまた、サイレントマジョリティが存在するわけだ。興味深いのは、掲示板にも正面から親の責任を問う声がないこと。この強力な自己規制を見よ。

「意外にも」と云うところが良くわからない。意外に多い、か、意外に少ない、か。僅差の二位、僅かかどうかは、主観である。因みに、一位と僅差の二位。ともあれ、
この場合、親の責任とは、

  • きわめて危険な装置を目の前にして、子供から目、あるいは、手を離したこと。
  • 危険を予知し、あの手の自動扉は、挟まると頭の骨が砕けるから近寄ってはいけない、と指導しなかったこと。
  • 子供の適切なしつけを怠り、自動ドアの隙間に駆け込む様な子供っぽい子供に育てたこと。

と云うことなのか?
その場の危険を親が予知できたかどうか、そこがこの場合の親の責任と云うことだろう。何となく危ないと思っていながら、扉はそこにあった。扉は、人を通すためにある。通り方はともかく、事故にあった少年は、扉を通ろうとした。他の目的に使おうとしていたわけではない。扉に挟まれることは予想できても、よもや、人を挟んで引きずり、頭の骨を砕くことがあるとは、想像しがたい。そこまでの危険を予知することは困難だろう。
逆に、様々な人々が無防備のまま通過する場所に、そのような危険を放置する側に責任があると私は思う。
この事件の親がどう考えているかは知らないが、子供を失った親は子供を守ることが出来なかったことに関して、責任を感じるものではないか。
親の責任を問うには、回転式の自動扉がきわめて危険な装置である、と云う、コンセンサスが必要である。事件が起こった時点で、製造者、設置者に、その認識はあったのだろう。
マスコミにはなかった。マスコミにその認識がないなら、親に装置の危険性を予知せよというのは、いささか難しい注文になると思う。
子供の手を繋ぐ、とか、目を届かせる、と云うことが、それほど簡単でないことも付け加えておく。