生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

死ぬ時くらい、そっとしておいて欲しい

先だって、ジェットコースターの事故で、私は事実だけを知り、それ以上の興味を持たなかった。何しろ、私はジェットコースターの類が嫌いで、自発的に乗ることは有り得ない。比較的ずさんな管理が行われていたと聞いても、別段に驚かない。JRの事故の時に、運転手が操作を誤ると事故になると知ったときは大変驚いたが、ジェットコースターの管理がいい加減だと聞いても、まぁ、そんなもんなんだろうと思った。
職場の同僚が、何処かで耳にした事故現場の悲惨な状況を話して聞かせてくれた。轢死のようなものだ。見るに堪えない事故だったのだろう。あらためてそれを見てきたように描写されると、よい心持ちはしない。但し、私は人の体の仕組みを比較的よく知っている。轢死、焼死、窒息死、凍死、失血死と様々な死に方があり、それぞれに人の死は悲惨であることを心得ている。個体としての意志が失われ、生命としての統合から解放され、人体は物質に成り下がる。私はその様な仕組みを理解しているから、誰かが命を落とすときどのような状況に陥るかは余り興味がない。だから、私は私自身の死に様にも興味がない。砕け散ろうと、藻くずになろうと、焼けただれようと、引き裂かれようと、私は一向に構わない。死んでしまえばそれっきりだから、そのあとどうなろうと構わない。その様なことを同僚に言うと、同僚は、残された家族のためにも、きれいな死に顔が良いという。遺体が整っていた方が良いという。
死んでしまえば分からないのだから、私は串刺しになろうが、生首を晒されようが、別に拘らない。私の死体に尊厳は要らない。その様なことを断言したら、彼は気分を害したようだった。
私は臓器提供のカードを持っている。だから、出来れば、臓器を提供できるようなコンディションで死ねればよい。その程度のことである。
どのような死に方でも構わないから、下世話な興味で私の死を扱わないで欲しい。それは感じる。
ある程度生きてきて、世帯を持って、次の世代を世に送り出したら、もう死ぬことさえその人の権利として認めてあげたい。死にたいというなら、それも本人の自由にして良いのではないかと思う。但し、政治家は自発的に死なない方が良いな。死後に噂のタネを撒くような死に方は不本意だろう。興味本位で扱われるのは、気の毒な限りだ。死ぬときくらい、社会的なアクティビティからは切り離して、個人の尊厳を認めてあげたらよい。
そっとしておいてあげたい。ただ、政治家はそれが許されない立場なのだろう。政治家は自殺してはいけないな。