生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

教育基本法改正

改正に反対する。昭和7年に生まれた父に育てられた。私は昭和37年生まれ。今にして思うと、敗戦の影響はまだ残っていたと思う。ご飯粒を大切にせよという言葉が、随分とリアルに聞こえた時代だ。多感な少年期を天皇崇拝、軍国主義というインチキに塗り込められ、防空壕の中で機銃掃射のノイズに怯え、戦後食うや食わずの1年を過ごし、教科書を墨で塗りつぶした父に、私は育てられた。
内田先生の言説を引用する。(教育基本法と真の国益について)

第十条にはこう記してある。
「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」
(中略)
しかし、戦後二年目にこの文言を起草した人々は「教育勅語」による管理教育がもたらした惨禍が骨身に沁みていた。
だから、「できるだけ教育は国家が管理しない方がいい」という自制の言葉をみずからが制定した法律のうちに書き入れたのである。
私はこの経験的知見を重く見る。

父は権力を信用しない。のめり込もうとしない。つねに冷静に、先を読もうとする、極めて慎重である。経験から来るのであろう。
それでも、父は教育勅語には良いことが色々と書いてあるという。その素晴らしい文言が、政治に利用された。
私は誠実に生きたい。自分自身に対して誠実でありたいとおもう。だから、不本意な法律が出来ると不都合だ。
法律は改正されるだろう。多数決なのだから、どうにもならない。改正されても、私は自分の信じるように生きて、子どもたちにもそう語りたい。
だから、私にはこの法律の改正はあまり関係ないに違いない。
歌を歌わされたって、へっちゃらだ。たかが歌ではないか。旗に敬礼させられたって、どってこと無い。嫌なら敬礼する振りをしたらよいだけではないか。
ただ、歌いたくないと言い張る人に無理矢理歌わせようとしたり、それが原因で揉め事になるようなことは、見ていて不愉快だから止めて欲しい。
その程度のこと。決まってしまったものは仕方がない。
私は自分の思うとおりに生活する。子どもたちに語る。

何かをすることに伴う責任について

何かをせずには居られないというきもちで、何かをやりたがっている人に、この様なことをしたらどうですかと提案し、ごく簡単にできることだったので大勢の人がそれに応じた。そういう話。
実際、転載することは、結構難しい。ただのコピペでもそれなりの転載にはなるのだが、フォントやら画像やら、そういうことを気にする人には、ことさら困難を感じるだろう。ボタンひとつで完了。大変なアイディアだ。
但し、これは転載する側が主体的に判断して転載する場合の話。本来はする側の責任に於いてやるわけだが。今回のようにテキストを作った側が、これを転載してくださいと要望する形でテキストが出まわると文責がどうなるかというと、おそらくはテキストを配布した側にある。転載した側には自分のサイトの管理責任のみだろう。刻々と変わっていく状況に対応出来ないし、ことによると人の命に関わるわけで、こんなに沢山テキストをばらまいちゃって、どうすんの、あんた。
転載した側もした側で、コメント欄にひとこと、ご要望の通り転載しましたとか、私も協力させていただきますとか何とか書いておけば、手伝ってあげただけで、私には責任無いよ。みたいな雰囲気になる。
大変よくない。
転載はパクリで、余程のことだ。これは、何か不可解なものの片棒を担いでいるという、責任意識しただろうか。一方、それをそそのかした側は大勢を巻き込んでいるという意識があったのだろうか。
ヤフーのブログの中だけでとどまるのなら、身内の話題として盛り上がるだけなら、別にどうでも良い。しかし、そこはインターネットという世の中なのだから、そう簡単な話ではないということだ。

私の考え

この件に関して、いろいろな人が意見を言っていて、発端者、つまり最初にテキストを書いて、読者に転載を勧めた人に責任があるという意見が多いように思う。

私はいろいろと書いていて、結論に達しつつある。
意味不明な(発端になったページを見ても、意図を読み取りがたい)テキストのコピーが増殖し、発端者のページにコメントなどが溢れたという結末で、別段、人の命を救っていないと思う。というか、どうしてこのようなことで人の命が救えると思ったのか全く不可解だ。
集団心理というか、なんだか。
なかなか難しいのだ。何を書こうがそれはその人の自由だと思っている。少なくとも、発端者は読者を煽ろうという意図があったかも知れないが、誰かを騙そうとは思っていないだろう。こう書けば人の命を救えるかも知れないと思ったひとが、あるテキストを書いた。そして、それが世の中に溢れたらこの世の中からいじめによる自殺が無くなるかも知れないと思って、みんなこれを転載してくださいと呼びかけた。それは言論と表現の自由なのではないか。
むしろ、そのようななんの役にも立たない、無意味な行為に自分のウエブページを提供した多くの転載者の意識の低さの方が遥かに危険で、責任を負うべきは転載者側と私は感じる。
但し、無知が愚行の原因であるとしたらそれは同情すべきことであり救済を受けるべきだと思う。
無知な人を意図的にそそのかしたとしたら、それはそそのかす方が悪いということを今回のケースに当て嵌めるのは難しいのではないか。