生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

食の安全とはちょっと違う話

雪印食品がごまかした話は、危ない食品に対して、国が買い上げる制度を利用して、危なくないと見なされる食品をお金に換えようとした。消費者に対する直接的な被害は少なく、事件の食の安全に対する影響は、生真面目で誠実であるべき食品製造会社の信頼を著しく落とした、ということである。
その前の、腐った牛乳を原料にした製品を出荷し、多くの市民を食中毒に陥れた事件は、直接消費者の健康にかかわることで、彼らは食品加工業としてあるまじき、怠慢と失態を演じた。
危険という認識があったかどうか、は重要である。未必の故意か、単純な過失かの分かれ目であるので。
鶏のインフルエンザの場合、更に話は違ってくる。
人に対する健康被害は、きわめて限定的で、感染した鶏と濃厚な接触をする養鶏家が危険である。感染鶏の肉や卵を介して人へ感染し、深刻な健康被害をもたらす可能性はほとんど無い。
悲劇だと思う。やるせない。事件性は無いのだと思う。
彼らが死んで、得をしたり、喜んだりする人は居ないだろう。状況を改善する方法を他に思いつかなかったのか。丹精して育て上げた鶏たちは、ビニール袋に放り込まれ、埋められてゆく。全てを失った上に、刑事訴追まで持ち出され、(どの法律に照らすのか、分からないけど)自らの存在価値を見いだせなくなったのかもしれない。追いつめられたのだ。
彼らの死は、何一つ状況を改善せず、却って自体を混乱させ、複雑にしている。鶏がウイルスに感染したことに関して、多分、彼らに落ち度はなく、災難が彼らの上に降りかかっただけなのだ。その後の手続で、彼らは信じがたいミスをしでかした。多くの同業者に、被害を波及させる原因となった。しかし、それだけなのだ。彼らの落ち度で人が死んだわけではない。
そしてその後の混乱はひとりの個人が背負うにはあまりに重すぎる。