生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

リハビリを行う

混沌とした一年が終わろうとしている。
私は、何一つ進歩せず、無為に一年を過ごしたように感じる。振り回され、疲れ果てた。何も達成できなかった。酷い一年を経験した。それだけだ。
酷いプレッシャーの中、あり得ないようなチャレンジをし続ける一年だった。結局、何が正解か、誰にもわからず、確率の話ばかりで一年が終わる。
理解しようとしない人たちを説得し続けた1年間だった。
私は、あらゆることを後回しにして、チャレンジし続けたと思う。自分を見失って、できることをやるだけの毎日だった。
ストレスフルな一年は、終わり、さらにストレスフルな未来が始まる。
私にはリハビリが必要と思う。
一年を過ごして、何かをゆっくり読み取ることをしなくなった。
私の視野に入ってくる全てに、完全な答えは自明な一方で、実現させようとする人は皆無だった。私は、自明な正解以外の答えを求められ、事実を見る気を失った。
全ては確率の話ばかりで、その確率に影響する幾らかの因子についての情報を読み取れば、それ以上のことを知る必要はない。
私は新聞を読まなくなって、テレビを見なくなった。ニュースの全ては無意味で、知っておくべきことは、今日の数字だけになった。その数字がどれほど確実なものかを知らせてくれる情報はどこを探しても見つからない。
私は、小さな社会の中に所属して、そこの中の人と、その社会の仕組みを守るための責任ある立場になって、延々と対策を考え、対応を打診され、皆に答えを与え続けてきた。どうしたら良いかは、私が答えるまでもなく明らかで、私はどれくらい手を抜いても大丈夫なのか、判断する役割である。理屈はすでに明らかで、判断の根拠になるデータは当てにならない。誰がそのデータを持っているのかもわからず、データを明らかにして伝えようとする人も見当たらない。
そのようにして、私は一年間、当てにならないデータを見ながら、人々を説得する一方で、根拠のない規制の緩和に取り組んできた。
その仕組みを作ったのは、政治家である。科学者の論拠は彼らには届かない。
一年に渡り、私の思考の過程は塩漬けにされていた。根拠のない判断をして、幸運を祈り続けてきた。全ては私の責任ではないが、全責任は私にあった。
何もせずに一年が終わる。私には、読んで、理解して考えて、アウトプットするためのリハビリテーションが必要である。何も考えず、責任だけ負わされることに慣れることは恐ろしい。
一年が過ぎて、私は考えて発言する方法を思い出さなくてはならない。
そのためのリハビリテーションである。