生活

面白いことは特にない、ただの日記です(投稿後に、二三日かけて書き直します)

暴力、処分

どうにも、釈然とせず、悶々としていたのだ。何か云おうと思っていたが、まとまらず。
決勝戦が一番ショボイ試合だった。エラーが多かった。併殺送りバントが二つあった。松橋にもうすこし投げさせても良かったはずだ。準決勝は厳しい試合だったが、2回表、最後の送球エラーで入った5点目。その後、辻内投手が立ち直っただけに明暗を分けた。
まぁ、その程度のことだったのだ。
私は高野連が好きでない。高校生達を型に嵌めたがる。甲子園という幻想。スタルヒン球場も、円山も、野球場なのだ。甲子園の幻想から高校生を解放せよ。全国持ち回りにしたら宜しかろう。
高校野球は好きだ。実際にスタジアムで観戦し、好きになった。甲子園でやるおかげで、試合を観戦できる。甲子園の幻想が、試合のテンションをさらに高めるのかもしれない。高野連に感謝すべきか?
彼らを裁く権利があるのは誰か?
私は、明徳のケースは大変悪しき前例と感じた。だから、それと別に考えるべきだと思ったが、「明徳が処分された以上、駒大も同様の処分は免れぬ」というような論調を見て、がっかりした。トーナメントの勝者と、不祥事と、どのように関連づけすべきなのか、理解に苦しんだ。高校野球は、トーナメントであると同時に、(である以前に?)教育の場であるのか?高野連の処分は、オールマイティなのか?
また、この件へ言及するのに、「暴力を肯定しないのは当然だ」と云う断り書を見受けたが、これにも私は凹ませられた。
私は自分の息子をひっぱたくことがある。暴力という言葉は刺激的だ。体罰を暴力という言葉に置き換えて良いものか。この例が、暴力に該当するかどうか、私は十分な情報を持たない。暴力なのかもしれない。
Wallerstein氏の示唆に富むエントリが興味深い。
私なりにまとめると。
教師側の言い分がぶれているのはまずい点。さらに、殴ることが教育的効果を上げる前提として、生徒がそういうしつけを家庭で受けているかどうかすなわち、悪いことを悪い、と言われ、また殴られて理解できるかどうかさらに、体罰をおこなううえで必要な教師としての最低限の条件として、

  1. その生徒が自分を信頼していること
  2. 自分が怒っていないこと

二つあげて、「怒ること」と「叱ること」の違いをわきまえるべきであると指摘している。
自らの戒めとして、引用した。